2008.10.10 Friday
福沢諭吉 自由とは何か?
中学生くらいの頃だったろうか? 親から離れて、自分の力で生きたいと強く思う時期があった。
毎日毎日、学校の校則に縛り付けられて、逃げる事の出来ない高校受験のストレスに束縛され、自由に憧れたものだった。
ところが、その頃、担任にその事を話すと、「自由ってのも辛いぞ。 やるべき事をやっての自由だからなぁ」 と、愚痴のような不満なような事を言ったのを今でも覚えている。
当時のretriever達のクラス担任は、若干24才の青春ドラマに出てくるような 長髪の先生だった。 (でも、ちょっと暗かった・・・・)
本当の自由の意味も知らず、ただストレスのない自由気ままな都合のいい夢を見ていたのだが、叱らず根気良く、よく教えてくれたと感謝している。
「自由」とは何か? フランス革命のあのトリコロールとよばれる三色旗。
青は自由、白は平等、赤は博愛を表していると言われているが、民衆は自由を手にする為に多くの血を流し、自由を守るため、更にまた多くの人殺しをしなければならなかった。
自由を手にするのだから、辛いリスクを払わなければならないという訳だ。
学校なら先生や親に怒られて、やるべき事をやらせてもらえるけど、社会人になれば、怠けようと思えば、いくらでも怠けられる。
ただし、必ずいつか、そのツケを自分が払う。 今、義務を果たさず逃げている人は、必ず惨めで悲惨な審判を受ける日が訪れる。 その日は近いにちがいない。
簡単な例を言えば、歯医者へ行くのが嫌だから・・・と言って、放っておく例と同じことだ。
なるたけ考えないようにするが、そうしている間もジワリジワリと進行し、最後は目もあてられない事になる。
この場合の「自由」とは、自分が社会人として保持する健康保険証を手に、スケジュールを調整して歯医者さんに行き、早期に治療してスッキリする事だ。
リスクを払ってでも自分を由(よ)くするのが自由だという事だ。
ところで、もともと「自由」という言葉は日本には無かった。
外国のフリーを「自由」とはじめて翻訳したのは、学校の教科書にも出ている あの福沢諭吉という人だ。 なんかこういうと、我々と遠い人のように感じてしまうけど・・・・・今日は、すこし接近してみよう。
学校で習うのは、福沢諭吉は著書『学問ノススメ』の中で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と記している事なのだが、そんなの現実には違うじゃないか! なんてみんな思ってしまう訳だ。
しかし、この後にどう書かれているか? そこまで学校では、教えてくれない。
「されど・・・この世の中を見るに・・・・・」
そして、どうすれば、こういった問題を解決できるのか?
教科書は答えてくれない。
その時代の日本には、「自分の将来の夢」というものが全く存在しない世の中だった。
農民の子は農民。 商人の子は商人。 というように進路が決まっていて、侍達に どんな理不尽な事をされても死ぬまでペコペコしなければならなかった。
そんな中、アメリカへ行ってきた福沢諭吉は、アメリカには日本語では訳す事のできない「フリー」という言葉があり、翻訳に難儀する。
「天下御免」と訳してみるが、そんな無法な世の中にしてしまったら、世の中の人達みんなが楽な仕事をして、米も作る人がいなくなり、魚を捕る人もいなくなる事になってしまう。
一体、誰が一番偉いのだろうか?
福沢諭吉は、それまで日本人が考えなかった「みんな身分が平等」で、わがままではなく、真の意味で自分を磨き、自らを由(よし)として適材適所に就き、互いに尊敬し尊重する為に学問を学ぶ。 という結論に達した。
この動画、消されないといいけどね。
フリーとは・・自らを由(よし)とする事。 人はみんな生まれながらにして自由。
これは、時間がある時に見てください。 福沢諭吉、坂本竜馬と会う。
竜馬は奇人だが、いいヤツだ。 かつての友達 人斬り以蔵 の悲劇から剣(暴力)では日本は変わらぬという。
竜馬は、剣を抜けば北辰一刀流の免許皆伝の腕前なのだが・・・・・・
日本史に燦然と輝く福沢諭吉、坂本竜馬 夢の対談 ← クリック
毎日毎日、学校の校則に縛り付けられて、逃げる事の出来ない高校受験のストレスに束縛され、自由に憧れたものだった。
ところが、その頃、担任にその事を話すと、「自由ってのも辛いぞ。 やるべき事をやっての自由だからなぁ」 と、愚痴のような不満なような事を言ったのを今でも覚えている。
当時のretriever達のクラス担任は、若干24才の青春ドラマに出てくるような 長髪の先生だった。 (でも、ちょっと暗かった・・・・)
本当の自由の意味も知らず、ただストレスのない自由気ままな都合のいい夢を見ていたのだが、叱らず根気良く、よく教えてくれたと感謝している。
「自由」とは何か? フランス革命のあのトリコロールとよばれる三色旗。
青は自由、白は平等、赤は博愛を表していると言われているが、民衆は自由を手にする為に多くの血を流し、自由を守るため、更にまた多くの人殺しをしなければならなかった。
自由を手にするのだから、辛いリスクを払わなければならないという訳だ。
学校なら先生や親に怒られて、やるべき事をやらせてもらえるけど、社会人になれば、怠けようと思えば、いくらでも怠けられる。
ただし、必ずいつか、そのツケを自分が払う。 今、義務を果たさず逃げている人は、必ず惨めで悲惨な審判を受ける日が訪れる。 その日は近いにちがいない。
簡単な例を言えば、歯医者へ行くのが嫌だから・・・と言って、放っておく例と同じことだ。
なるたけ考えないようにするが、そうしている間もジワリジワリと進行し、最後は目もあてられない事になる。
この場合の「自由」とは、自分が社会人として保持する健康保険証を手に、スケジュールを調整して歯医者さんに行き、早期に治療してスッキリする事だ。
リスクを払ってでも自分を由(よ)くするのが自由だという事だ。
ところで、もともと「自由」という言葉は日本には無かった。
外国のフリーを「自由」とはじめて翻訳したのは、学校の教科書にも出ている あの福沢諭吉という人だ。 なんかこういうと、我々と遠い人のように感じてしまうけど・・・・・今日は、すこし接近してみよう。
学校で習うのは、福沢諭吉は著書『学問ノススメ』の中で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と記している事なのだが、そんなの現実には違うじゃないか! なんてみんな思ってしまう訳だ。
しかし、この後にどう書かれているか? そこまで学校では、教えてくれない。
「されど・・・この世の中を見るに・・・・・」
そして、どうすれば、こういった問題を解決できるのか?
教科書は答えてくれない。
その時代の日本には、「自分の将来の夢」というものが全く存在しない世の中だった。
農民の子は農民。 商人の子は商人。 というように進路が決まっていて、侍達に どんな理不尽な事をされても死ぬまでペコペコしなければならなかった。
そんな中、アメリカへ行ってきた福沢諭吉は、アメリカには日本語では訳す事のできない「フリー」という言葉があり、翻訳に難儀する。
「天下御免」と訳してみるが、そんな無法な世の中にしてしまったら、世の中の人達みんなが楽な仕事をして、米も作る人がいなくなり、魚を捕る人もいなくなる事になってしまう。
一体、誰が一番偉いのだろうか?
福沢諭吉は、それまで日本人が考えなかった「みんな身分が平等」で、わがままではなく、真の意味で自分を磨き、自らを由(よし)として適材適所に就き、互いに尊敬し尊重する為に学問を学ぶ。 という結論に達した。
この動画、消されないといいけどね。
フリーとは・・自らを由(よし)とする事。 人はみんな生まれながらにして自由。
これは、時間がある時に見てください。 福沢諭吉、坂本竜馬と会う。
竜馬は奇人だが、いいヤツだ。 かつての友達 人斬り以蔵 の悲劇から剣(暴力)では日本は変わらぬという。
竜馬は、剣を抜けば北辰一刀流の免許皆伝の腕前なのだが・・・・・・
日本史に燦然と輝く福沢諭吉、坂本竜馬 夢の対談 ← クリック
JUGEMテーマ:エンターテイメント
自由とは 闘って初めて手に入れられた物だったんですね
「自由とは やるべきことを やっての自由」 という言葉も 深いですね
自らの可能性を信じ 「自分を磨き、自らを由(よし)として適材適所に就き、互いに尊敬し尊重する為に学問を学ぶ。」可能性は無限大
なのに 今 自分を縛るのは 弱い意思なのかもしれません。自分を信じ生きることの大切さを ないがしろにしては いけませんね。
考える機会を ありがとう!(^^)!